民団も総連も日本人にとって「恩を仇
で返す」存在であることを忘れるな!
しつこく憲法違反が明確な外国人参政権を要求し続ける在日大韓民国民団(民団)、図々しくも朝鮮学校授業料無償化を要求する拉致の実行組織とされる在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)。この二つの組織はその前身が「日本朝鮮人連盟」といい、その前は「在日朝鮮人連盟中央総本部」、別名「朝鮮進駐軍」と自ら名乗っていました。
この朝鮮進駐軍が終戦直後に日本で一体何をしたのか?。日本人なら絶対に忘れてはならず、未来永劫、子々孫々語り継がねばなりません。調べれば調べるほ ど、頭に来ます。戦後教育ではこれらの蛮行は一切教えられておらず、在日の「我々は差別されてきた、金寄こせ!」というウソ八百に明確に反論できない日本 人があまりにも多すぎます。事実を知れば、「謝罪と賠償」を要求するのは在日韓国朝鮮人や韓国ではなくて日本であることは明白です。
保守系のブログでは、「戦後のどさくさ紛れに駅前の一等地を不法に奪って焼き肉屋とパチンコになっている」という記述はよく見かけますが、GHQの 甘い調査だけでも4000人以上の日本人が虐殺され、略奪、暴行、強姦、襲撃は数知れず、その罪がいまだに問われていないのです。和夫一家殺害事件しか り、李承晩ラインを一方的に引いて日本漁船328隻が拿捕され、日本人44人が殺傷され、3929人が抑留された事実も忘れてはいけません。
というわけで、つくる会「日韓併合は日本の誇り」から「戦後の混乱と三国人問題『朝鮮進駐軍』とは?」の部分と、「何故『三国人』が差別用語になったのか(左翼系在日朝鮮人騒乱史)」さ んから騒乱事件(多数収録されています、青色見出しをクリック)の抜粋をお届けします。動画もよく知られているヒット数の多いものです。ご存知の方は飛ば して下さい。皆さん、これをご覧になって「怒り」を新たにし、何としても謝罪決議と朝鮮高校授業料無償化阻止に向け抗議の行動に立ち上がって下さい。
●創生日本声明 「日韓併合100年」菅談話、断固阻止を!
■朝鮮学校への国庫補助を拙速に決めることに反対する家族会・救う会声明
●日本創新党 日韓併合100年周年における菅首相の謝罪声明に断固反対
有名な写真です。GHQが当初は中途半端な対応したのを
良いことに朝鮮人は自ら武装して治外法権のごとく日本人
を虐殺、強奪、強姦をした事を私達は忘れてはいけません。
戦後の混乱と三国人問題・「朝鮮進駐軍」とは?
一九四五年八月一五日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。
当時、ポツダム宣言についてマスコミは「笑止」「黙殺」等と報じ本土決戦を示唆していたが、天皇の詔勅による突然の降伏を日本国民は従容として受け入れた。しかし、それに乗じて大混乱を引き起こしたのは、日本人とともに戦争を戦った筈の朝鮮人と一部の台湾人だった。
進駐軍も当初、朝鮮人と台湾人が日本の植民地下で虐げられていたという前提で、日本人側か戦勝国側かの法的地位を明確にしないまま、心情的に日本人とは区別して扱った。そのために彼らは戦勝国の人間として扱われるべきだと主張し、突然、日本人に対する不法行為が増えた。
特に酷かったのは、進駐軍に名を借りた「朝鮮進駐軍」と言われる朝鮮人三万人もの集団であった。彼らはピストルや日本刀等で武装し、武器を持てな かった無力な警察を襲い、敗戦に打ち拉がれた日本人を襲い、土地金品の略奪、銀行襲撃、殺人、強盗、暴行、強姦をほしいままにした。やがて東京から日本全 国に広がり、GHQの記録に残っているだけでも四千人以上の日本人が殺害されたのである。
極めつきは、一九四六年十二月二十日に起きた首相官邸襲撃事件である。一万人以上の朝鮮人が参加して首相官邸に突入したが、日本警察では手に負えず、アメリカ憲兵隊が出動して鎮圧した。一方、彼らの不法行為を許せないとしてヤクザ集団が立ち上がり、日本人の欝憤を晴らした事もあった。
「三国人」という呼称は戦後の朝鮮人・台湾人は日本人でも戦勝国人でもない第三の地位であると言う意味である。その後、連合国もようやく事態の深刻さに気づき、在日朝鮮人は日本の国内法に従うべきとして通達を出した。なお、朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟中央総本部)はのちの日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となった。
本来、戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民 という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。これらの事件は、どう考えて も内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立 場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。彼らは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきで しょう。
・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡 山県警察部の捜査員に協力した。その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・ 日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を 絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
・阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
・枝川事件(1949年4月6~13日)
・第二神戸事件(1950年11月20~27日)
・王子事件(1951年3月7日)
・半田・一宮事件(1951年12月3日~11日)
1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下 数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は 12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入し て警備の警察官ともみ合いになった。また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊し た。他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。
・岡山事件(1952年4月24日~5月30日)
阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無 届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン (催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞 社の写真部員に投石したりした。11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害 で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。
・血のメーデー事件(1952年5月1日)
第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場(引用者 注:皇居前広場のこと)に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。乱闘中に、 3000~5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は 一大修羅場と化した。この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。
・万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。1952年5月31日 以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上 宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町(現在の宇部市新町9丁目)にある「朝鮮人解放救援会山口 県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入 し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。
・吹田・枚方事件(1952年6月24日~25日)
6・25朝鮮戦争前 夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を 変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進 中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔 面に火傷を与えた。また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって 抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾 を仕掛けて爆破させた。これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。逃走 途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。
・新宿駅事件(1952年6月25日)
国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向 かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。また、デモ隊の一部は新宿 駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。
・大須事件(1952年7月7日)
大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系 の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、 民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴 舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。名古屋地方検察庁及び名 古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。
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