これは酷い! フィギュアスケート世界選手権を放送したフジテレビの酷さ!
2011-05-02 05:48:30
フィギュアスケート世界選手権 を放送したフジテレビの酷さ
私の心友が日記に書いた内容を掲載します。
あまりにもショッキングな内容で、これは皆さんに知って貰う為・・載せるべきだと思いました。
↓(以下:全文掲載)
フィギュアスケート世界選手権。
本来は東京開催だったけれど、震災の影響で開催不能に。
そのため、1ヶ月遅れでロシアでの開催となった。
この世界選手権で、代替開催国となったロシアは、
わずか1ヶ月という準備期間にも関わらず、あらゆる面で日本に多大な配慮をしてくれている。
自国開催を楽しみにしていた日本国民がテレビで中継を楽しめるようにと、日本時間のゴールデンタイムに合わせて開会。
開会式では日本を、被災地を応援する演出。
そしてフィナーレでは、日本選手を中心に、日の丸を描いて各国の選手が輪になって、日本を励ますパフォーマンス。
選手たちも、随所に日本へのメッセージを伝えてくれた。
アモディオ選手は、減点対象となるボーカル入りの曲をあえて使用。
「これは日本の人たちへのささやかな歌のプレゼントだ」と。
たくさんの選手たちが、応援席の観客が、日本への応援をくれた。
エキシビションに祈りを込めた選手たちもいた。
そして、グランドフィナーレ。
ロシアのフィギュアスケート連盟から、日本への詩のメッセージが送られた。
全文をネットで見ることができる。
----------------
『日本にささげる詩』
地球がいたみでうめき声を発した
自然の強さに全世界がショックをうけ
あらゆるものを水は深海に流した
しかし 何があっても太陽は東から昇る
地震と津波は光には勝てない
我々の神様が
地球の皆の命を保ってくれることを祈る
桜が咲く公園はたくさんあることを
白樺が咲く公園はたくさんあることを
鳥が春の歌を歌えることを
旗が勝利の祝いで挙げられることを祈る
子供たちが大人たちへと願う
友の皆さん 手をつないで
われわれがこの地球において
ひとつの家族になっていることを忘れないでほしい
----------------
ところが。
ロシアからの、こんな温かなメッセージは、
しかしほとんどの日本国民には届いていない。
独占中継したフジテレビは、このメッセージを放送しなかった。
時間切れじゃない。
そもそも、ロシアがせっかくゴールデンタイムに合わせて開催してくれているのに。
フジテレビの放送は、19時から始まって、最初の1時間以上はひたすら前日の振り返りVTRとキムヨナの特集。
リアルタイムではなく遅らせて放送した上に、何故か演技順序を入れ換えて放送。
日本選手のエキシビションがようやく放送されたのは、TBSでJINが始まった頃。
さらに延長放送になったため、金メダルの安藤美姫選手の涙のレクイエムを録画できなかった人がたくさんいる。
そして、フィナーレでの各国選手からの応援も、ロシアからのメッセージも放送されなかった。
さらには、安藤美姫選手はロシア語でお礼を述べ、そのあと日本の現状を英語で伝えたそうですが…
当然そんなこともフジでは放送されませんでした。
これは時間切れなんかじゃない。
インタビューやCGや、ましてやスタジオの感想など放送する余裕があるのだから。
意図的に流さなかったとしか思えない。
今までなら、視聴者はなにも知らずに終わっただろう。
でも今、テレビは地上波だけじゃない。衛星放送、ネットもある。
完全生中継をした有料放送を見たたくさんの視聴者がTwitterにリアルタイムに情報を流した。
それを見比べると、フジテレビがどれだけ放送をカットし、どれだけの世界からの応援メッセージを伝えなかったかがよくわかる。
世界中の好意を踏みにじっておいて、自分たちの視聴率稼ぎのことしか頭にないとしたら、
公共の電波を預かるメディアとして最低だ。
転載元
ttp://ameblo.jp/saita-saki/entry-10878670973.html
「小沢一郎は済州島出身」 千葉大名誉教授 清水馨八郎氏が明言!
西村慎吾氏が指摘、日本人の政治家ではない!
日本人は民度が劣る、優秀な韓国人の
血を入れないと害虫日本人が増える!
スタートしてすぐ、1分30秒前後にこの小沢一郎の発言が紹介されます
(画像クリックで拡大)
(九十三歳)第19151号 國民新聞 平成22年1月25日(月曜日)1、2月新春合併号
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org635489.jpg
≫と手厳しい。
御年93歳、怖いものなし!
清水馨八郎氏のベストセラー「侵略の世界史」。廉価な文庫本ですが
これで白人国家が過去500年の間に世界で何をやってきたのかが判ります。
私のブログタイトルも当初はこういう話を紹介してやろうと思ってネーミングしたのでした。
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転載元
売国奴・民主党のブーメランを期待するブログ
花うさぎの「世界は腹黒い」
韓国人、女性をワゴン車で200メートル引きずる
千葉県警船橋署は4日、車で女性をはねて約200メートル引きずったとして、殺人未遂の疑いで同県船橋市前原西、韓国籍の無職、曺永錫容疑者(24)を逮捕した。
逮捕容疑は3日午後4時20分ごろ、船橋市本町7丁目の市道交差点付近で、同市旭町のパート従業員、佐藤幸子さん(42)をワゴン車ではね、引きずって蛇行運転し、重傷を負わせた疑い。
同署によると「記憶がはっきりせず、よく分からない」と容疑を否認している。2人が歩道で口論している様子を複数の通行人が目撃。曺容疑者が近くに止めた自分の車に乗り込み、佐藤さんをはねたという。
佐藤さんは全身を打ち意識不明となったが、その後回復。ワゴン車は逃走したが、現場近くで別の乗用車と衝突。乗用車の男性も軽傷を負ったという。
歩道で口論→車ではね200メートル引きずる 殺人未遂容疑で男逮捕 産経ニュース
在日韓国人の曺永錫は自分が追突したのに「テメェがブレーキを踏んだから悪い」と女性に因縁を付けたという。
火病った曺永錫が「何度も何度も殴りつけ女性をボコボコにした」と証言する目撃者。
暴行後に自分の車に乗り込む曺永錫。
女性も自分の車に乗ろうとしたところをはね、そのまま女性を数百メートル引きずる。
その後別の車と衝突し大破する曺永錫のワゴン車。
このような気違い犯罪者の韓国・朝鮮人が、民主党などが提唱する「在日特権」に守られ、永住外国人として日本にたくさん寄生し、韓国からの密入国者も後を絶ちません。
1日でも早く、様々な「在日特権」を撤廃し、韓国・朝鮮人の犯罪者にとって、日本が居心地のよい場所ではないことを悟らせることが大切です。
転載元
http://blog.goo.ne.jp/toki_1/e/9c2d0e331837ca77937640757ad2325d
日本人四千人以上を虐殺した「朝鮮進駐軍」!
日本人四千人以上を虐殺した「朝鮮進駐軍」!
民団も総連も日本人にとって「恩を仇
で返す」存在であることを忘れるな!
しつこく憲法違反が明確な外国人参政権を要求し続ける在日大韓民国民団(民団)、図々しくも朝鮮学校授業料無償化を要求する拉致の実行組織とされる在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)。この二つの組織はその前身が「日本朝鮮人連盟」といい、その前は「在日朝鮮人連盟中央総本部」、別名「朝鮮進駐軍」と自ら名乗っていました。
この朝鮮進駐軍が終戦直後に日本で一体何をしたのか?。日本人なら絶対に忘れてはならず、未来永劫、子々孫々語り継がねばなりません。調べれば調べるほ ど、頭に来ます。戦後教育ではこれらの蛮行は一切教えられておらず、在日の「我々は差別されてきた、金寄こせ!」というウソ八百に明確に反論できない日本 人があまりにも多すぎます。事実を知れば、「謝罪と賠償」を要求するのは在日韓国朝鮮人や韓国ではなくて日本であることは明白です。
保守系のブログでは、「戦後のどさくさ紛れに駅前の一等地を不法に奪って焼き肉屋とパチンコになっている」という記述はよく見かけますが、GHQの 甘い調査だけでも4000人以上の日本人が虐殺され、略奪、暴行、強姦、襲撃は数知れず、その罪がいまだに問われていないのです。和夫一家殺害事件しか り、李承晩ラインを一方的に引いて日本漁船328隻が拿捕され、日本人44人が殺傷され、3929人が抑留された事実も忘れてはいけません。
というわけで、つくる会「日韓併合は日本の誇り」から「戦後の混乱と三国人問題『朝鮮進駐軍』とは?」の部分と、「何故『三国人』が差別用語になったのか(左翼系在日朝鮮人騒乱史)」さ んから騒乱事件(多数収録されています、青色見出しをクリック)の抜粋をお届けします。動画もよく知られているヒット数の多いものです。ご存知の方は飛ば して下さい。皆さん、これをご覧になって「怒り」を新たにし、何としても謝罪決議と朝鮮高校授業料無償化阻止に向け抗議の行動に立ち上がって下さい。
●創生日本声明 「日韓併合100年」菅談話、断固阻止を!
■朝鮮学校への国庫補助を拙速に決めることに反対する家族会・救う会声明
●日本創新党 日韓併合100年周年における菅首相の謝罪声明に断固反対
一九四五年八月一五日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。
当時、ポツダム宣言についてマスコミは「笑止」「黙殺」等と報じ本土決戦を示唆していたが、天皇の詔勅による突然の降伏を日本国民は従容として受け入れた。しかし、それに乗じて大混乱を引き起こしたのは、日本人とともに戦争を戦った筈の朝鮮人と一部の台湾人だった。
進駐軍も当初、朝鮮人と台湾人が日本の植民地下で虐げられていたという前提で、日本人側か戦勝国側かの法的地位を明確にしないまま、心情的に日本人とは区別して扱った。そのために彼らは戦勝国の人間として扱われるべきだと主張し、突然、日本人に対する不法行為が増えた。
特に酷かったのは、進駐軍に名を借りた「朝鮮進駐軍」と言われる朝鮮人三万人もの集団であった。彼らはピストルや日本刀等で武装し、武器を持てな かった無力な警察を襲い、敗戦に打ち拉がれた日本人を襲い、土地金品の略奪、銀行襲撃、殺人、強盗、暴行、強姦をほしいままにした。やがて東京から日本全 国に広がり、GHQの記録に残っているだけでも四千人以上の日本人が殺害されたのである。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキに ぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害し た」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と 叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に 押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲 兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8 日に国外追放処分になった。
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を 適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかっ たので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長 と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。大阪市警察局と国家地方警察大阪 府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。
神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正な ど14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、 検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。
東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮 人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分 と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。
11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。
24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に 集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラ ス等を破壊した。神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】
1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校(現在の東京朝鮮中高級学校)を捜索し、多数の印刷物を押収した。3月7日、これに抗議する約1700人(うち朝鮮学校生徒1100校で「真相発表大会」を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。
●博士の独り言
菅談話「15日に発表」考
閣議通過阻止を
●【日本を】『日本解体法案』反対請願.com【守ろう】
民団も総連も日本人にとって「恩を仇
で返す」存在であることを忘れるな!
しつこく憲法違反が明確な外国人参政権を要求し続ける在日大韓民国民団(民団)、図々しくも朝鮮学校授業料無償化を要求する拉致の実行組織とされる在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)。この二つの組織はその前身が「日本朝鮮人連盟」といい、その前は「在日朝鮮人連盟中央総本部」、別名「朝鮮進駐軍」と自ら名乗っていました。
この朝鮮進駐軍が終戦直後に日本で一体何をしたのか?。日本人なら絶対に忘れてはならず、未来永劫、子々孫々語り継がねばなりません。調べれば調べるほ ど、頭に来ます。戦後教育ではこれらの蛮行は一切教えられておらず、在日の「我々は差別されてきた、金寄こせ!」というウソ八百に明確に反論できない日本 人があまりにも多すぎます。事実を知れば、「謝罪と賠償」を要求するのは在日韓国朝鮮人や韓国ではなくて日本であることは明白です。
保守系のブログでは、「戦後のどさくさ紛れに駅前の一等地を不法に奪って焼き肉屋とパチンコになっている」という記述はよく見かけますが、GHQの 甘い調査だけでも4000人以上の日本人が虐殺され、略奪、暴行、強姦、襲撃は数知れず、その罪がいまだに問われていないのです。和夫一家殺害事件しか り、李承晩ラインを一方的に引いて日本漁船328隻が拿捕され、日本人44人が殺傷され、3929人が抑留された事実も忘れてはいけません。
というわけで、つくる会「日韓併合は日本の誇り」から「戦後の混乱と三国人問題『朝鮮進駐軍』とは?」の部分と、「何故『三国人』が差別用語になったのか(左翼系在日朝鮮人騒乱史)」さ んから騒乱事件(多数収録されています、青色見出しをクリック)の抜粋をお届けします。動画もよく知られているヒット数の多いものです。ご存知の方は飛ば して下さい。皆さん、これをご覧になって「怒り」を新たにし、何としても謝罪決議と朝鮮高校授業料無償化阻止に向け抗議の行動に立ち上がって下さい。
●創生日本声明 「日韓併合100年」菅談話、断固阻止を!
■朝鮮学校への国庫補助を拙速に決めることに反対する家族会・救う会声明
●日本創新党 日韓併合100年周年における菅首相の謝罪声明に断固反対
有名な写真です。GHQが当初は中途半端な対応したのを
良いことに朝鮮人は自ら武装して治外法権のごとく日本人
を虐殺、強奪、強姦をした事を私達は忘れてはいけません。
戦後の混乱と三国人問題・「朝鮮進駐軍」とは?
一九四五年八月一五日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。
当時、ポツダム宣言についてマスコミは「笑止」「黙殺」等と報じ本土決戦を示唆していたが、天皇の詔勅による突然の降伏を日本国民は従容として受け入れた。しかし、それに乗じて大混乱を引き起こしたのは、日本人とともに戦争を戦った筈の朝鮮人と一部の台湾人だった。
進駐軍も当初、朝鮮人と台湾人が日本の植民地下で虐げられていたという前提で、日本人側か戦勝国側かの法的地位を明確にしないまま、心情的に日本人とは区別して扱った。そのために彼らは戦勝国の人間として扱われるべきだと主張し、突然、日本人に対する不法行為が増えた。
特に酷かったのは、進駐軍に名を借りた「朝鮮進駐軍」と言われる朝鮮人三万人もの集団であった。彼らはピストルや日本刀等で武装し、武器を持てな かった無力な警察を襲い、敗戦に打ち拉がれた日本人を襲い、土地金品の略奪、銀行襲撃、殺人、強盗、暴行、強姦をほしいままにした。やがて東京から日本全 国に広がり、GHQの記録に残っているだけでも四千人以上の日本人が殺害されたのである。
極めつきは、一九四六年十二月二十日に起きた首相官邸襲撃事件である。一万人以上の朝鮮人が参加して首相官邸に突入したが、日本警察では手に負えず、アメリカ憲兵隊が出動して鎮圧した。一方、彼らの不法行為を許せないとしてヤクザ集団が立ち上がり、日本人の欝憤を晴らした事もあった。
「三国人」という呼称は戦後の朝鮮人・台湾人は日本人でも戦勝国人でもない第三の地位であると言う意味である。その後、連合国もようやく事態の深刻さに気づき、在日朝鮮人は日本の国内法に従うべきとして通達を出した。なお、朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟中央総本部)はのちの日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となった。
本来、戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民 という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。これらの事件は、どう考えて も内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立 場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。彼らは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきで しょう。
・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡 山県警察部の捜査員に協力した。その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・ 日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を 絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
・阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
・枝川事件(1949年4月6~13日)
・第二神戸事件(1950年11月20~27日)
・王子事件(1951年3月7日)
・半田・一宮事件(1951年12月3日~11日)
1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下 数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は 12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入し て警備の警察官ともみ合いになった。また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊し た。他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。
・岡山事件(1952年4月24日~5月30日)
阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無 届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン (催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞 社の写真部員に投石したりした。11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害 で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。
・血のメーデー事件(1952年5月1日)
第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場(引用者 注:皇居前広場のこと)に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。乱闘中に、 3000~5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は 一大修羅場と化した。この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。
・万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。1952年5月31日 以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上 宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町(現在の宇部市新町9丁目)にある「朝鮮人解放救援会山口 県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入 し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。
・吹田・枚方事件(1952年6月24日~25日)
6・25朝鮮戦争前 夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を 変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進 中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔 面に火傷を与えた。また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって 抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾 を仕掛けて爆破させた。これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。逃走 途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。
・新宿駅事件(1952年6月25日)
国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向 かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。また、デモ隊の一部は新宿 駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。
・大須事件(1952年7月7日)
大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系 の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、 民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴 舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。名古屋地方検察庁及び名 古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。
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(画像クリックでネット記事)
孫正義は日債銀乗っ取りに加担した?
日債銀の「消えた不正融資資金」
窃盗されたのは日本人の銀行預金である。 こうして日債銀は、資金に「穴が、あいた」=不良債権、使途不明金の「山」となり倒産した。
倒産原因となったピーターソン=サーベラスが、倒産を口実に日債銀を乗っ取り、次に、日債銀に集まっていた不動産融資をテコに、日本国中の優良不動産の乗っ取りを大々的に展開した。
これが、90年代のバブル崩壊の、真相、2011年に至る「日本の失われた20年」の真相である。 その真相を知る人間を、ホテルの一室で、絞殺し、事実が闇に葬られて来た。
188:FROM名無しさan:2011/02/27(日) 19:26:54.58
なお、サーベラスが日債銀を乗っ取るに際し、単独での乗っ取りでは、サーベラスが日本人からの批判のターゲットになる事を考慮し、 乗っ取りの「協力に参画した」のが、孫正義のソフトバンクである。
孫正義は、乗っ取りが完了すると、ソフトバンクの持っていた日債銀の株式の全てをサーベラスに売却している。ソフトバンクが、サーベラスの「仮装会社」であった事が、この売却劇で分かる。
この孫正義は長らく、スカイ・パーフェクトTVの経営で、「世界のメディア王ルパート・マードック[Keith Rupert Murdoch, 1931-]」のニューズ・コーポレーション社と提携関係にあった。
その際、スカイ・パーフェクトTVの常務が、フジTVの境政郎であった事は、サーベラスの別働隊として動いた孫正義のネットワークを見るには興味深い。
孫正義、サーベラスが、乗っ取りを仕掛ける企業の株式に関し、「ウォール・ストリート・ジャーナル」が、悪評を書き立て、「暴落させる」。 こうして、乗っ取りを行いやすくし、乗っ取り成功の後には、好材料を、「ウォール・ストリート・ジャーナル」が書き立て、株式を上昇させ、乗っ取った企業の経営を容易にし、経営を軌道に乗せる。 株価の上下を自由に操るのが、ダウ・ジョーンズ社と、「ウォール・ストリート・ジャーナル」のマードックであり、マードックと孫正義、サーベラスは、ビジネス・パートナーである。 これが企業乗っ取り屋と、ニューヨーク・ダウ、「ウォール・ストリート・ジャーナル」との、談合のカラクリである。
マジメに株式・債券の値動きを予測するために罫線グラフを追う投資家達が、水晶玉に世界全体が映ると妄信し、呪文を唱えるカルト宗教の信者である事が分かる。世界の真相は、水晶玉の中にも、統計指標にも、「ウォール・ストリート・ジャーナル」等の新聞=メディアにも、公式発表されるニューヨーク・ダウにも「無い」。
今後、郵便局を巡り、日本国債の暴落・急上昇=日本人の貯金の略奪を演じるに際し、こうしたメディアは「主役を演じる」事になる。 サーベラスによる、郵便局資金の「事実上の乗っ取り」は、前哨戦に過ぎない。 これから、この郵便局を「使い」、日本国債の価格操作と、日本の全ての銀行にある日本人の全ての預金の略奪が始まる。
191:FROM名無しさan:2011/02/27(日) 19:32:04.60
日債銀が、サーベラスに乗っ取られ、「あおぞら銀行」と改名する前夜、2001年9月20日、日債銀の社長であった本間忠世が大阪の阪急インターナショナルホテルで首吊り死体となって発見されている。 捜査に当たった大阪府の曽根崎警察署は自殺であると断定し、刑事捜査を全く行わなかったが、自殺の夜、本間社長の宿泊する部屋の隣室からは、隣の部屋で異常に騒がしい物音がするとホテルのフロントに苦情が来ていた。
本間社長は自殺の寸前に、「1人で、大暴れしていたのであろうか?」 それとも、本間社長は何者かに襲撃され、殺害されまいと激しく抵抗し、その暴力ザタが、隣室に「異常に騒がしい物音」として聞こえていたのであろうか?
本間社長が首吊り用のロープをかけた、カーテンレールには、人間1人の体重が加わった場合に起こる変形・湾曲が一切、見受けられなかった(カーテンレール は、カーテンの布地の荷重に耐え得るだけの設計しか、なされていない。 人間の体重全体を支えるような強固な作りは通常、されていない)。 しかも、自殺前後の本間社長の行動を跡付けて見ても、自殺用のロープを購入できるような店舗に立ち寄った形跡が全く無く、「どこからロープを入手したの か」、現在も全く不明である。
こうした事実の積み重ねは、日銀から送り込まれ、日債銀の「不明朗な融資先の解明」を行おうとしていた本間社長が、日債銀の資金を略奪したマフィア・グループの正体を突き止めかけたため、何者かによって殺害された事を強く物語っている。
通常、政治・経済的「謀略」では、その謀略工作によって利益を受けた者が、その「画策の真犯人である」。
転載元http://mikari1216.iza.ne.jp/blog/entry/2311486/
在日韓国人の特別永住資格が付与された歴史的背景-韓国政府に拉致された日本人を取り戻すため
テーマ:在日特権
李承晩ラインによる韓国の非道
1952年1月18日、突如、韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を引き、竹島(独島)をその中に含めた。
何故、1月18日であったのか?
サンフランシスコ講和条約が発効するのは4月であり、それ以前の日本は身動きが取れない状態であったから韓国の竹島占領に対して邪魔もできない。
2月28日、日韓の国交正常化交渉の本会議が始まる一ヶ月ほど前に韓国側として、国交正常化交渉を自国に有利に進めるという側面から、竹島問題を引き出し てきたのである。李承晩ラインとそれに引き続いて発生する竹島問題に対して、日本側はどれだけの準備をし、あるいは、自覚していたのかというと、ほとんど 認識していなかったのではなかろうか。
問題が起こってから騒ぎ立てるというのは、日本の一つの外交パターンだが、韓国側としては、実は周到な準備をして日韓の国交正常化に臨んでいたの である。すなわち日本側の譲歩を引き出すため、国交正常化交渉の外交カードとして使ったのが、竹島問題であり、李承晩ラインであったからだ。
李承晩ラインが登場する背景には、サンフランシスコ講和条約があった。こ のサンフランシスコ講和条約は、1951年9月8日に調印され、52年の4月28日に発効している。問題はその第二条の(a)項にあった。草案の段階では 「鬱陵島・竹島・済州島」が日本の領土から離れて、朝鮮側に返還される領土・島嶼と規定されていた。それには「連合国軍総司令部訓令第677号」というの があって、そのとき連合国軍総司令部が竹島を韓国側として規定していたからである。
ところが講和条約の最終案では、日本から除かれる地域が「済州島・巨文島・鬱陵島」とされ、同条約によって竹島は朝鮮領から除外されていた。草案から最終案が決定する際に、日本側とアメリカとの間で交渉が行なわれ、竹島は日本領土として確定したからである。
だが、これは韓国政府にとっては深刻な問題であった。講和条約が発効すれば、竹島は日本領となってしまい、竹島を韓国固有の領土と信ずる韓国側は、危機感をもったのである。そこでサンフランシスコ講和条約が発効する以前に、自分達で自国領土として宣言し、翌月からはじまる日韓国交正常化交渉の外交手段としたのである。
その姿勢は、韓国側が「李承晩ライン」を「平和線」つまり平和の線とよぶことにも現れている。「平和線」とは、日本の漁民が韓国の領海を犯して自 国の資源を乱獲しているので、それをやめさせるための線だから平和線なのだという。それに韓国側では、竹島は歴史的にも自国のものとする認識を李承晩大統 領自身がもっており、当時の韓国の人たちにも、竹島を韓国固有の領土とする歴史認識が形成されていた。
その歴史認識に決定的な役割を果たしていたのが、崔南善である。
彼は日本の統治時代、朝鮮総督府の歴史編纂官で、日本にもよく知られていた歴史学者だが、その崔南善のもとを、韓国政府の兪鎮午という、後に日韓 の国交正常化交渉の際に第五次の韓国側代表となる人物が訪問し、竹島が歴史的に朝鮮領であるとして確信できる確かな論拠を教えてもらっていた。兪鎮午はそ れを李承晩大統領に報告し、韓国政府は李承晩ラインを引いて、竹島を自国領として宣言したのである。
しかし、「李承晩ライン」は、一方的に公海上に引いた線である。公海上では当然、日本の漁民たちは漁業を行なっているわけだから、結果として日本 漁船が拿捕されることになった。「平和線」という名称と目的とは裏腹に、戦後の日韓関係を憎悪と不信に駆り立てる導火線となった。1952年2月15日から始まった日韓の正常化交渉の最中にも、韓国政府は「李承晩ライン」に依拠して日本漁船を領海侵犯の容疑で拿捕しつづけ、交渉にも重大な影響を与えることになったのである。
この「李承晩ライン」については、宣言の直後からアメリカ、イギリス、中華民国からも違法性が指摘された。のちにアメリカのハーター国務長官は「韓国が日本漁船を公海で捕獲し、船を押収、漁夫に体刑を課していることが日韓関係を著しく悪化させている」として、韓国政府の措置に憂慮を示している。(1960年3月17日付『朝日新聞夕刊』)
韓国は李承晩ラインを盾に何名くらいの日本人を抑留し、日本漁船を拿捕したのか?
3,929人が抑留され、328隻が拿捕されたし、その過程で四十四名の方が死傷してしまった。1953 年1月6日、第二次日韓会談の再開が合意され、予備交渉が1月27日から始まった。しかし、その予備交渉が始まる直前の1月12日、李承晩大統領が「平和 線」内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、1953年2月4日には、「李承晩ライン」を侵犯したとして日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺 されるという事件も発生している。
1953年12月12日、韓国政府は「漁業資源保護法」を公布した。その「第三条(罰則)」では、「違反した者には三年以下の懲役、禁錮または 50万ウォン以下の罰金」が科せられ、「第四条」では、犯罪捜査や臨検捜索の権限が認められた。日本漁船を拿捕する法的根拠が準備されたのである。つま り、それまでの韓国の漁船拿捕は、韓国の国内法においても取り締まる根拠がなかったのに取り締まっていたわけで、国際法および国内法に照らしても、不当 だったのである。
日韓の正常化交渉はこのような状況の下で行なわれていた。
おりしも国交正常化交渉が山場を迎えていたころ、日本は岸内閣が外交交渉にあたっていた。韓国側に拉致された日本の漁民は岸首相のお膝元である山口県や 中国地方の人たちが圧倒的に多かったため、岸首相としては、地元の漁民たちを、何とか救いたいという気持ちに傾いていかざるを得なかった。一方、日韓の国交正常化交渉でいちばん大きな問題は、朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題であった。その個人資産は、当時の韓国経済の80%に当たるともいわれていたからだ。韓国側としては、それを持ち出されたら困る。何とか、日本側に搬出させないためにはどうしたらよいのか。
そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。
「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。
公海上に引かれた李承晩ラインを根拠にして拿捕して、その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使った。現在、北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパターンといえよう。もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい!在日韓国人の法的地位を認めなさい! あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさい! という外交交渉のカードに利用した。
日韓基本条約の交渉過程を見れば、当時の佐藤栄作首相も、以下のように発言したのも納得できるのではないだろか。「しかも、これは、国際的に見まして、こんなむずかしい交渉はないといわれておる。」
[005/005] 50 - 衆 - 日本国と大韓民国との間… - 5号 昭和40年10月28日発言者232を参照
知っていますか、日本の島 自由国民社 下条正男他著
下條正男氏講演 「領土問題の現状と課題」
http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/henkan/08.html
1951年7月19日 韓国大使(ヤン)から国務長官への書簡。
一、大韓民国政府は、第二条a項の「放棄する」という語を、「朝鮮ならびに済州島、巨文鳥、欝陸島、ドク島およびパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一郡であった島々に対するすべての権利、権原および請求権を、一九四五年八月九日に放棄したことを確認する」と置き換えるよう要望する。
1951年8月10日 国務次官補(ラスク)から韓国大使への回答
草案第2条(a)を日本が「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、ドク島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、1945年8月9日に放棄したことを確認する」と改訂するという韓国政府の要望に関しては、合衆国政府は、遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。
合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を条約がとるべきだとは思いません。
ドク島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に 関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄 下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。
■竹島問題と在日朝鮮人特権の歴史年表をよく読んで欲しい
■1949年01月:李承晩、政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。(この要求はGHQにより「根拠がない」と却下。日本も拒否。)
1949年02月:韓国軍一斉に釜山に集結開始(対馬返還の後押し、または対馬上陸作戦を画策したものと推察)
1949年04月:国連安保理、韓国の国連加入案を否決
1949年05月:米軍から李承晩政権への武器供与を停止
1949年06月:米、韓国撤退完了を発表
1950年01月:米韓軍事援助相互協定調印。が、米は韓国側からの軍事支援要求を拒否。
1950年04月:韓国、空前の大インフレ。年間200%を達成。
■1950年6月 朝鮮戦争始まる
・北朝鮮怒濤の南下、北による統一直前に至る。
・日本に大量の韓国人避難民が到着。
■同年7月 GHQレッドパージを発動、日本占領方針を転換。
■同年9月 国連軍出動
(安保理事会をソ連が欠席し、拒否権を行使しなかったので国連軍が成立)
・国連軍怒濤の北上、あと少しで南による統一寸前。
・GHQの命令で、旧日本海軍の残存部隊、国連軍に協力し朝鮮戦争で機雷掃海を行う。
■同年11月 中国共産党 中国義勇軍で参戦。
・38度線付近まで押し返され、戦線膠着。
■1951年7月 休戦会談開始
■同年9月 日本と連合国はサンフランシスコ講和条約調印、
1952年4月に日本が独立回復することが決まる。
■1952年1月
朝鮮戦争のさなか、国連軍の後方基地と機雷掃海を引き受けていた日本に対し、韓国政府は、日本が独立回復する前に、李ラインを宣言。竹島を電撃占領。
多くの日本漁船が攻撃され死傷者多数・拿捕された。
韓国が拿捕した日本船籍の船舶数:328隻(行方不明併せると340隻)
抑留された日本人の数:3929人
拿捕の過程での死傷者数:44人(殆どが射殺と溺死)
日本は抗議するものの、GHQ占領下で涙を飲む。
(在日特権は3929人の人質と引き換えに日本刑務所にいた400名弱に付与された、これ以外は全て詐欺による取得と言える)
■同年4月28日 ようやく日本独立を回復。
■1953年7月 朝鮮戦争、休戦協定成立。 (中国と北朝鮮軍事同盟を結ぶ)
・避難民は帰国せず、日本に居着き、いつの頃からか、強制連行されたとウソをまき散らす。
竹島占領は、まさに火事場泥棒だった。
■日韓基本条約締結、賠償(身代金)3億ドル(当時のレート支払済み)日本刑務所の在日朝鮮人に特権付与と引き換えに日本漁民開放
(この3億ドルはボスコなど企業設立に使用され、日本にかなり還流した。元々韓国は農業主体で、工業は無かったのである)
■韓国の領土侵犯と朝鮮戦争(停戦中)これらの事件によりGHQの方針が変わり日本の軍備が成された。
警察予備隊>自衛隊の誕生である。日本と朝鮮半島はアジアのスイスとなる国連計画だったが、朝鮮人の醜い争いが全てを変えてしまい今に至る。朝鮮半島は戦後ずっと不安定な紛争地帯のままだ。
http://maokapostamt.jugem.jp/
李承晩ライン(李ライン)
1952年、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言によって規定された領海水域。同宣言により朝鮮半島周辺(最大二百マイル)の水域内に存在する、す べての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。日本側はこのラインを認めず、結局65年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで、韓国軍による 日本漁船の拿捕が続いた。
李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数
抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人
死者の中には、娘が生まれたばかりの若い漁師も居た。
赤ん坊は、生後数ヶ月で父を殺された。
************************************************************
中日ニュース(ライブラリー映像)「韓国から抑留漁夫帰る」
昭和33年の記事212号
http://home.att.ne.jp/theta/chunichieiga/212.jpg
李承晩ライン 「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
日本の植民地時代、外国に亡命していた政治家たちがその中心となって成立した韓国政府が、反日にこり固まっていたのは当然であったろう。日本軍としばしば戦闘を交えていたゲリラ部隊の指導者が政権の座についた北朝鮮政府もいうまでもない。
李承晩政府は、"皇国思想に毒された子弟"の教育のために、徹底的な反日教育を実施した。教育にとどまらず、「反日」「侮日」は韓国という新国家 の基本的政策、体質となった。韓国は今日においてさえ、日本の映画、演劇、レコード、音楽テープなどの輸入は、"文化侵略"として禁止されている。このよ うな韓国の情勢が日本人に快いはずはない。もう一つ、終戦間もない頃、日本人が韓国を憎むようになった、より直接的、具体的なものとしては、日本側では" 悪名高い李承晩ライン"がある。
日本が連合国占領下にあった期間は、いわゆるマッカーサー・ラ インによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その 領海の外側に広範囲に設定した。その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。
翌53年には漁業資源保護法を制定し、李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。
1955年11月には、韓国連合参謀本部は李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。1952年以降5年間で拿捕 された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために韓国漁民が圧迫されていたの は、日韓併合前からおこっていた問題である。
日本の植民地時代にも、1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上にトロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあっ た。韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたいと考えるのは理解できないこともないが、しかし一般日本人にとっては、李承晩ラインは"傍若無人と横 車"の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。微力な日本政府は、韓国政府の、国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、漁 民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。
日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。
http://mirror.jijisama.org/rekisi2.htm
「朝日新聞 天声人語」 1963年9月28日
李ライン海域で日本漁船がまた捕獲された。韓国警備艇の武装した隊員が乗り移り三十四人の日本人船員を連行している。同じ二十七日の朝、別の漁船も追われ 十人の船員は海に飛びこんで逃げ、船長は一時重体だったという。冷たい海中をいのちがけの避難だ。李ラインでの無法がまたはげしくなった。この海域はいま、アジ、サバの盛漁期で、五、六百隻の日本漁船が出漁している。そこをねらって韓国警備艇は不意打ちをかける。ライトを消し、島陰づたいに近寄り、銃撃をあびせたりする。
日本側も巡視船を増やし、厳戒警報を出しているが、捕獲は防ぎきれず、今年になってすでに十六隻。昨年一年中に捕獲された数よりも多い。李ライン を越したという理由だけで、これまでに多数の船員が釜山の刑務所に入れられ、船はとりあげられている。優秀船だとそれが韓国警備艇に早変わりして、日本漁 船を追ってくる。海の狼のような韓国警備艇の仕業だ。
そもそも李ラインというのは昭和二十七年(1952)一月に韓国大統領の李承晩氏が、国防上の要請によるとして、設定を宣言したものだが、それは公海上に一方的に設定したもので、国際法上不当なものだ。
日本政府はこのラインを認めていないが、過去十年間に韓国は勝手に実力を行使して、約三百隻の日本漁船を抑留、数多くの乗組員や家族を泣かせている。
九月(1963年)にはいって、韓国側がさかんに捕獲を開始したのは、大統領選挙と関係があるらしい。韓国の漁業界、漁民の票を得るために、朴政権は海洋警察隊に日本漁船捕獲を命じたとも見られる。選挙の術策として隣国の漁船捕獲をはげしくするというやり方が、国際常識からも許されるかどうか。韓国漁民の間に、日本漁業の技術に対する恐れと警戒の気持ちがあるのかもしれぬが、資源の保護や漁業協力について日韓交渉で、双方とも誠意をつくして話し合えばよい。
漁民票をねらった強引な捕獲はこれまでの交渉での双方の努力を無にしはせぬか。韓国は李ラインを"平和ライン"と呼ぶが、現状は不法ラインである。公海上で日本漁船員を捕まえるこの理不尽は黙って見過ごせるものではない。
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?uid=24211&fid=24211&thread=1000000&idx=1&page=3&tname=exc_board_58&number=20249
日本の漁民を人質にして在日特権(永住権)を獲得した韓国
・1952年、当時の大統領李承晩は国際法のルールを無視し、
「李承晩ライン」を勝手に引き、そして李承晩ライン内にある竹島を韓国領土だと主張してこれを占領。
・竹島周辺で操業をしていた漁船328隻が拿捕され、3929人もの漁師が抑留。
その期間は、1965年の李承晩ライン廃止まで13年間。拿捕時に銃撃や追突を受け、44人の死傷者を出す。
・拿捕した漁師を人質に取り、「日韓基本条約」と「日韓法的地位協定」の交渉を有利に進める。
・13年後、1965年、日本と韓国は在日の扱いをどうするかの「日韓基本条約」と「日韓法的地位協定」が結ばれ、
その結果、在日韓国人に無条件で子々孫々永住が出来る資格が与えられる。
つまり、在日コリアンが日本にいられる正当な理由はない。
ましてや、反日に凝り固まって恩を仇で返し続ける日本に居座り続ける在日早く日本からでていきなさい。
転載元
1952年1月18日、突如、韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を引き、竹島(独島)をその中に含めた。
何故、1月18日であったのか?
サンフランシスコ講和条約が発効するのは4月であり、それ以前の日本は身動きが取れない状態であったから韓国の竹島占領に対して邪魔もできない。
2月28日、日韓の国交正常化交渉の本会議が始まる一ヶ月ほど前に韓国側として、国交正常化交渉を自国に有利に進めるという側面から、竹島問題を引き出し てきたのである。李承晩ラインとそれに引き続いて発生する竹島問題に対して、日本側はどれだけの準備をし、あるいは、自覚していたのかというと、ほとんど 認識していなかったのではなかろうか。
問題が起こってから騒ぎ立てるというのは、日本の一つの外交パターンだが、韓国側としては、実は周到な準備をして日韓の国交正常化に臨んでいたの である。すなわち日本側の譲歩を引き出すため、国交正常化交渉の外交カードとして使ったのが、竹島問題であり、李承晩ラインであったからだ。
李承晩ラインが登場する背景には、サンフランシスコ講和条約があった。こ のサンフランシスコ講和条約は、1951年9月8日に調印され、52年の4月28日に発効している。問題はその第二条の(a)項にあった。草案の段階では 「鬱陵島・竹島・済州島」が日本の領土から離れて、朝鮮側に返還される領土・島嶼と規定されていた。それには「連合国軍総司令部訓令第677号」というの があって、そのとき連合国軍総司令部が竹島を韓国側として規定していたからである。
ところが講和条約の最終案では、日本から除かれる地域が「済州島・巨文島・鬱陵島」とされ、同条約によって竹島は朝鮮領から除外されていた。草案から最終案が決定する際に、日本側とアメリカとの間で交渉が行なわれ、竹島は日本領土として確定したからである。
だが、これは韓国政府にとっては深刻な問題であった。講和条約が発効すれば、竹島は日本領となってしまい、竹島を韓国固有の領土と信ずる韓国側は、危機感をもったのである。そこでサンフランシスコ講和条約が発効する以前に、自分達で自国領土として宣言し、翌月からはじまる日韓国交正常化交渉の外交手段としたのである。
その姿勢は、韓国側が「李承晩ライン」を「平和線」つまり平和の線とよぶことにも現れている。「平和線」とは、日本の漁民が韓国の領海を犯して自 国の資源を乱獲しているので、それをやめさせるための線だから平和線なのだという。それに韓国側では、竹島は歴史的にも自国のものとする認識を李承晩大統 領自身がもっており、当時の韓国の人たちにも、竹島を韓国固有の領土とする歴史認識が形成されていた。
その歴史認識に決定的な役割を果たしていたのが、崔南善である。
彼は日本の統治時代、朝鮮総督府の歴史編纂官で、日本にもよく知られていた歴史学者だが、その崔南善のもとを、韓国政府の兪鎮午という、後に日韓 の国交正常化交渉の際に第五次の韓国側代表となる人物が訪問し、竹島が歴史的に朝鮮領であるとして確信できる確かな論拠を教えてもらっていた。兪鎮午はそ れを李承晩大統領に報告し、韓国政府は李承晩ラインを引いて、竹島を自国領として宣言したのである。
しかし、「李承晩ライン」は、一方的に公海上に引いた線である。公海上では当然、日本の漁民たちは漁業を行なっているわけだから、結果として日本 漁船が拿捕されることになった。「平和線」という名称と目的とは裏腹に、戦後の日韓関係を憎悪と不信に駆り立てる導火線となった。1952年2月15日から始まった日韓の正常化交渉の最中にも、韓国政府は「李承晩ライン」に依拠して日本漁船を領海侵犯の容疑で拿捕しつづけ、交渉にも重大な影響を与えることになったのである。
この「李承晩ライン」については、宣言の直後からアメリカ、イギリス、中華民国からも違法性が指摘された。のちにアメリカのハーター国務長官は「韓国が日本漁船を公海で捕獲し、船を押収、漁夫に体刑を課していることが日韓関係を著しく悪化させている」として、韓国政府の措置に憂慮を示している。(1960年3月17日付『朝日新聞夕刊』)
韓国は李承晩ラインを盾に何名くらいの日本人を抑留し、日本漁船を拿捕したのか?
3,929人が抑留され、328隻が拿捕されたし、その過程で四十四名の方が死傷してしまった。1953 年1月6日、第二次日韓会談の再開が合意され、予備交渉が1月27日から始まった。しかし、その予備交渉が始まる直前の1月12日、李承晩大統領が「平和 線」内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、1953年2月4日には、「李承晩ライン」を侵犯したとして日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺 されるという事件も発生している。
1953年12月12日、韓国政府は「漁業資源保護法」を公布した。その「第三条(罰則)」では、「違反した者には三年以下の懲役、禁錮または 50万ウォン以下の罰金」が科せられ、「第四条」では、犯罪捜査や臨検捜索の権限が認められた。日本漁船を拿捕する法的根拠が準備されたのである。つま り、それまでの韓国の漁船拿捕は、韓国の国内法においても取り締まる根拠がなかったのに取り締まっていたわけで、国際法および国内法に照らしても、不当 だったのである。
日韓の正常化交渉はこのような状況の下で行なわれていた。
おりしも国交正常化交渉が山場を迎えていたころ、日本は岸内閣が外交交渉にあたっていた。韓国側に拉致された日本の漁民は岸首相のお膝元である山口県や 中国地方の人たちが圧倒的に多かったため、岸首相としては、地元の漁民たちを、何とか救いたいという気持ちに傾いていかざるを得なかった。一方、日韓の国交正常化交渉でいちばん大きな問題は、朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題であった。その個人資産は、当時の韓国経済の80%に当たるともいわれていたからだ。韓国側としては、それを持ち出されたら困る。何とか、日本側に搬出させないためにはどうしたらよいのか。
そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。
「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。
公海上に引かれた李承晩ラインを根拠にして拿捕して、その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使った。現在、北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパターンといえよう。もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい!在日韓国人の法的地位を認めなさい! あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさい! という外交交渉のカードに利用した。
日韓基本条約の交渉過程を見れば、当時の佐藤栄作首相も、以下のように発言したのも納得できるのではないだろか。「しかも、これは、国際的に見まして、こんなむずかしい交渉はないといわれておる。」
[005/005] 50 - 衆 - 日本国と大韓民国との間… - 5号 昭和40年10月28日発言者232を参照
知っていますか、日本の島 自由国民社 下条正男他著
下條正男氏講演 「領土問題の現状と課題」
http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/henkan/08.html
1951年7月19日 韓国大使(ヤン)から国務長官への書簡。
一、大韓民国政府は、第二条a項の「放棄する」という語を、「朝鮮ならびに済州島、巨文鳥、欝陸島、ドク島およびパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一郡であった島々に対するすべての権利、権原および請求権を、一九四五年八月九日に放棄したことを確認する」と置き換えるよう要望する。
1951年8月10日 国務次官補(ラスク)から韓国大使への回答
草案第2条(a)を日本が「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、ドク島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、1945年8月9日に放棄したことを確認する」と改訂するという韓国政府の要望に関しては、合衆国政府は、遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。
合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を条約がとるべきだとは思いません。
ドク島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に 関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄 下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。
■竹島問題と在日朝鮮人特権の歴史年表をよく読んで欲しい
■1949年01月:李承晩、政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。(この要求はGHQにより「根拠がない」と却下。日本も拒否。)
1949年02月:韓国軍一斉に釜山に集結開始(対馬返還の後押し、または対馬上陸作戦を画策したものと推察)
1949年04月:国連安保理、韓国の国連加入案を否決
1949年05月:米軍から李承晩政権への武器供与を停止
1949年06月:米、韓国撤退完了を発表
1950年01月:米韓軍事援助相互協定調印。が、米は韓国側からの軍事支援要求を拒否。
1950年04月:韓国、空前の大インフレ。年間200%を達成。
■1950年6月 朝鮮戦争始まる
・北朝鮮怒濤の南下、北による統一直前に至る。
・日本に大量の韓国人避難民が到着。
■同年7月 GHQレッドパージを発動、日本占領方針を転換。
■同年9月 国連軍出動
(安保理事会をソ連が欠席し、拒否権を行使しなかったので国連軍が成立)
・国連軍怒濤の北上、あと少しで南による統一寸前。
・GHQの命令で、旧日本海軍の残存部隊、国連軍に協力し朝鮮戦争で機雷掃海を行う。
■同年11月 中国共産党 中国義勇軍で参戦。
・38度線付近まで押し返され、戦線膠着。
■1951年7月 休戦会談開始
■同年9月 日本と連合国はサンフランシスコ講和条約調印、
1952年4月に日本が独立回復することが決まる。
■1952年1月
朝鮮戦争のさなか、国連軍の後方基地と機雷掃海を引き受けていた日本に対し、韓国政府は、日本が独立回復する前に、李ラインを宣言。竹島を電撃占領。
多くの日本漁船が攻撃され死傷者多数・拿捕された。
韓国が拿捕した日本船籍の船舶数:328隻(行方不明併せると340隻)
抑留された日本人の数:3929人
拿捕の過程での死傷者数:44人(殆どが射殺と溺死)
日本は抗議するものの、GHQ占領下で涙を飲む。
(在日特権は3929人の人質と引き換えに日本刑務所にいた400名弱に付与された、これ以外は全て詐欺による取得と言える)
■同年4月28日 ようやく日本独立を回復。
■1953年7月 朝鮮戦争、休戦協定成立。 (中国と北朝鮮軍事同盟を結ぶ)
・避難民は帰国せず、日本に居着き、いつの頃からか、強制連行されたとウソをまき散らす。
竹島占領は、まさに火事場泥棒だった。
■日韓基本条約締結、賠償(身代金)3億ドル(当時のレート支払済み)日本刑務所の在日朝鮮人に特権付与と引き換えに日本漁民開放
(この3億ドルはボスコなど企業設立に使用され、日本にかなり還流した。元々韓国は農業主体で、工業は無かったのである)
■韓国の領土侵犯と朝鮮戦争(停戦中)これらの事件によりGHQの方針が変わり日本の軍備が成された。
警察予備隊>自衛隊の誕生である。日本と朝鮮半島はアジアのスイスとなる国連計画だったが、朝鮮人の醜い争いが全てを変えてしまい今に至る。朝鮮半島は戦後ずっと不安定な紛争地帯のままだ。
http://maokapostamt.jugem.jp/
李承晩ライン(李ライン)
1952年、韓国の李承晩大統領が行なった、一方的宣言によって規定された領海水域。同宣言により朝鮮半島周辺(最大二百マイル)の水域内に存在する、す べての天然資源、水産物を利用する権利を主張した。日本側はこのラインを認めず、結局65年の日韓漁業協定で李承晩ラインが廃止されるまで、韓国軍による 日本漁船の拿捕が続いた。
李承晩ライン廃止までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数
抑留者数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人
死者の中には、娘が生まれたばかりの若い漁師も居た。
赤ん坊は、生後数ヶ月で父を殺された。
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中日ニュース(ライブラリー映像)「韓国から抑留漁夫帰る」
昭和33年の記事212号
http://home.att.ne.jp/theta/chunichieiga/212.jpg
李承晩ライン 「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
日本の植民地時代、外国に亡命していた政治家たちがその中心となって成立した韓国政府が、反日にこり固まっていたのは当然であったろう。日本軍としばしば戦闘を交えていたゲリラ部隊の指導者が政権の座についた北朝鮮政府もいうまでもない。
李承晩政府は、"皇国思想に毒された子弟"の教育のために、徹底的な反日教育を実施した。教育にとどまらず、「反日」「侮日」は韓国という新国家 の基本的政策、体質となった。韓国は今日においてさえ、日本の映画、演劇、レコード、音楽テープなどの輸入は、"文化侵略"として禁止されている。このよ うな韓国の情勢が日本人に快いはずはない。もう一つ、終戦間もない頃、日本人が韓国を憎むようになった、より直接的、具体的なものとしては、日本側では" 悪名高い李承晩ライン"がある。
日本が連合国占領下にあった期間は、いわゆるマッカーサー・ラ インによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その 領海の外側に広範囲に設定した。その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。
翌53年には漁業資源保護法を制定し、李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。
1955年11月には、韓国連合参謀本部は李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。1952年以降5年間で拿捕 された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために韓国漁民が圧迫されていたの は、日韓併合前からおこっていた問題である。
日本の植民地時代にも、1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上にトロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあっ た。韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたいと考えるのは理解できないこともないが、しかし一般日本人にとっては、李承晩ラインは"傍若無人と横 車"の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。微力な日本政府は、韓国政府の、国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、漁 民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。
日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。
http://mirror.jijisama.org/rekisi2.htm
「朝日新聞 天声人語」 1963年9月28日
李ライン海域で日本漁船がまた捕獲された。韓国警備艇の武装した隊員が乗り移り三十四人の日本人船員を連行している。同じ二十七日の朝、別の漁船も追われ 十人の船員は海に飛びこんで逃げ、船長は一時重体だったという。冷たい海中をいのちがけの避難だ。李ラインでの無法がまたはげしくなった。この海域はいま、アジ、サバの盛漁期で、五、六百隻の日本漁船が出漁している。そこをねらって韓国警備艇は不意打ちをかける。ライトを消し、島陰づたいに近寄り、銃撃をあびせたりする。
日本側も巡視船を増やし、厳戒警報を出しているが、捕獲は防ぎきれず、今年になってすでに十六隻。昨年一年中に捕獲された数よりも多い。李ライン を越したという理由だけで、これまでに多数の船員が釜山の刑務所に入れられ、船はとりあげられている。優秀船だとそれが韓国警備艇に早変わりして、日本漁 船を追ってくる。海の狼のような韓国警備艇の仕業だ。
そもそも李ラインというのは昭和二十七年(1952)一月に韓国大統領の李承晩氏が、国防上の要請によるとして、設定を宣言したものだが、それは公海上に一方的に設定したもので、国際法上不当なものだ。
日本政府はこのラインを認めていないが、過去十年間に韓国は勝手に実力を行使して、約三百隻の日本漁船を抑留、数多くの乗組員や家族を泣かせている。
九月(1963年)にはいって、韓国側がさかんに捕獲を開始したのは、大統領選挙と関係があるらしい。韓国の漁業界、漁民の票を得るために、朴政権は海洋警察隊に日本漁船捕獲を命じたとも見られる。選挙の術策として隣国の漁船捕獲をはげしくするというやり方が、国際常識からも許されるかどうか。韓国漁民の間に、日本漁業の技術に対する恐れと警戒の気持ちがあるのかもしれぬが、資源の保護や漁業協力について日韓交渉で、双方とも誠意をつくして話し合えばよい。
漁民票をねらった強引な捕獲はこれまでの交渉での双方の努力を無にしはせぬか。韓国は李ラインを"平和ライン"と呼ぶが、現状は不法ラインである。公海上で日本漁船員を捕まえるこの理不尽は黙って見過ごせるものではない。
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?uid=24211&fid=24211&thread=1000000&idx=1&page=3&tname=exc_board_58&number=20249
日本の漁民を人質にして在日特権(永住権)を獲得した韓国
・1952年、当時の大統領李承晩は国際法のルールを無視し、
「李承晩ライン」を勝手に引き、そして李承晩ライン内にある竹島を韓国領土だと主張してこれを占領。
・竹島周辺で操業をしていた漁船328隻が拿捕され、3929人もの漁師が抑留。
その期間は、1965年の李承晩ライン廃止まで13年間。拿捕時に銃撃や追突を受け、44人の死傷者を出す。
・拿捕した漁師を人質に取り、「日韓基本条約」と「日韓法的地位協定」の交渉を有利に進める。
・13年後、1965年、日本と韓国は在日の扱いをどうするかの「日韓基本条約」と「日韓法的地位協定」が結ばれ、
その結果、在日韓国人に無条件で子々孫々永住が出来る資格が与えられる。
つまり、在日コリアンが日本にいられる正当な理由はない。
ましてや、反日に凝り固まって恩を仇で返し続ける日本に居座り続ける在日早く日本からでていきなさい。
転載元
朝鮮歴史館
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国民が知らない反日の実態
花うさぎの「世界は腹黒い」